休学生の一日[day54]

8時26分に起きる。

 

   なぜこんな細かい数字を覚えているかって?それは意識しているからだ。少なくともおれに関しては、意識しないと何も覚えられないし、また意識しただけでは何も覚えていられないことも分かっている。まあ、そんなことはどうでもいい。寒いし、調子が良くない。だからカーテンは開けない。どちらにせよ冬景色でどの季節よりも外は輝いている。心地のいい明るさだった。テーブルにはいつも切りたての林檎が置いてある。今日のは美味い。どこのだろう。皮の朱い林檎は美味しいと思う。卵をかき混ぜ熱し、パセリを乗せた欧風のスクランブルエッグのようなものが出てくる。白ご飯か。おれは単調な食事が嫌いだから、生卵を追加しようとするが、そのままやると厳しい指摘を受ける。主婦は卵を無駄遣いしない。だから飄々とした雰囲気で当然のように卵を割る。これが朝食におけるおれのチェックメイトだ。

 

   今日は月曜日だから、胸の日だ。BCAAを飲む。血中濃度が最大になるまでに45分かかるから、いつも通り愛を取り戻そうとしなくなったオープニングを冷めたハートで流し、南斗五車星の行く末を見守った。幾つかの雑事を済ませ、それからおれのワークアウトが始まる。腕立て伏せ。至ってシンプルだ。唸り声と共にアプリケーションによって計測が進んでゆく。駄目だ。最近伸び悩んでいる。いくつかのセットがあるが、まず自己最高連続記録を更新してからの2セット目がしんどい。それにプロテインがない。届かない。佐川は何をやっているんだ。いいか働くんだ。ともかく、効率の低下はモチベーションの減退につながる。プロテインの飲めないおれはこのワークアウトを諦めた。気持ちの良いところで終えた。おれは自分の限界を知るためにやっているわけではない。身体を大きくしていくということは、即ち限界を日々超えていくことともちろん理解しているが、それが叶わない日だってある。それが佐川のせいであろうと、恋人と飲みすぎたのが原因であろうと、単に疲れていようと、とにかく駄目な時は駄目だ。だから、駄目なりにどうにかする。

 

   起き上がれない。いくつかのいざこざと、予定の変更におれは苦しんでいた。泣き出したい気持ちはとうに超えているが、涙はそう簡単に出てくれない。だがBGMや映画があれば大抵泣ける。涙は外からやってくる。おれは真昼から涙で枕を濡らした。おれのような冷血は、とりあえず気持ちが人並みに出れば自己満足できる。泣いたことに満足し、次にどのような手を打つべきか考えた。抗鬱剤は全く効いていない。だがおれには常にメンターがいる。今日ならそれはジョージ・レーゼンビーのジェームズ・ボンドだ。彼が白昼堂々と枕を涙で濡らすだろうか?おれはまるで想像がつかず、とりあえず泣くのはよかったが、もうやめとくことにした。こうしてすぐにやわらかい着地点に達した。さる新書の内容を拾い読みで把握し、得るものも無かったのでなぜ買ったか疑問に思いながら売るものリストに加えた。さあ準備だ。

 

   服が決まらない。おれも恋人のように脈々と同じような服装を受け継いでゆくべきだと思った。いつまでも物欲があり、いつまでも満たされず、繰り返されるのはうんざりだったし、笑顔の恋人を見るたびにヤフオクに張り付いている自分がバカらしくなった。だから前と同じコートを真っ先に手に取った。前と同じマフラーも手に取った。一つおれの打開策として、巻き方を変えることにした。顔の形、大きさ、首との比率、考えた末コートとの相性が抜群の会心の出来になった。決まった。

 

   家族とすれ違う。スエードは水を弾くね。と。嬉しそうに言う。ちゃんとしたものに然るべき準備を加えたのだから当たり前だ。何度も言ってやってるのに。手間のかかる奴だ。

 

   いつになったらあの女は来るんだ。変更に次ぐ変更、遅延に次ぐ遅延。おれは突っぱねさらに引き寄せ突きかえすつもりでしかなかった。ハンカチを忘れたので買いに行った。限りある選択肢の中からなるべく上品なものを選ぶ。女を泣かせるつもりだったから、これは大事な準備だ。涙が染みになるのを見るのはなお惨めだ。だから濃い色のものを選ぶ。ついでに買ったガムを食べようと包装紙を開けるとそれは飛び出し見事にベンチ裏に着地した。おれのスコアはいくつだ?ボンドはこんなことはしない。ようやくその時が来るまで、とにかくどうすることがあの女のためになるか、それだけを延々と考えた。数十分後、おれはハンカチのことは忘れ、女に向かって心から微笑んでいた。

 

   夢のような時間を過ごした後は、寂しいものだ。去り際を見つめる時の、充実感の中に佇む孤独を微かに感じる瞬間、それはいつもなんとも言えない気持ちにさせてくる。だがホームの向こう側にその人はいた。わざわざ携帯でやり取りをしながら微笑み合う。最後に手を振り合って、真に満たされた。

 

   ヘーゲルに関する論文を読んでいる。正反合程度は知っていたが、三分法という考え方はしかしずいぶん応用の効くもののようだ。だが今日は全く進めない。明日は早く、今日は遅かった。全く受けの良くない中東の香が燻る部屋の中で、今日の始末をする。いくつかのブーツを持っているが、どれも冬向きじゃない。秋だ。今日の外出で無残にも雪にやられてしまったレザーソールを乾かす必要があったし、ブラッシングもしなくてはならない。オールソールを検討する。チェルシーブーツにコマンドソール、面白そうだ。どうも風呂に入る気がしない。まだコロンが香っている。ジョーマローン、混ざり合う香の中、微睡みを湛えて。

広告を非表示にする