休学生の一日 [day230]

  うつと無気力について雑感。

 

  おれは医者からうつ病と診断されている。20代にして既に10年以上経過しているベテランである。

  人が目の前の人間がうつ病と聞いて取る反応は二種類ある。一つはある種の受容つまり手慰めであり、もう一つは拒絶である。後者は分かりやすいので省略する。前者が指すものは同情であったり、個人的な想像である。何故手慰めと表現したか、正にどうにもならないからだ。虚しさしか残らない。

  さておき、こういう状態に置かれると孤立を深めてしまうのは想像に難くないだろう。運が良くても精神的には孤立する。そういう人間は、各々の具体的症状と向き合いながら、高度に自律的な生活を育む必要が生じる。その必要のもとにうつ病患者は、各々のやり方で、日々を遂行している。

  その日々を阻害する要因として一つ、無気力がある。軽傷うつのおれの場合、これは主症状の一つであると言っても過言ではない。何故無気力になるのだろうか。動けなくなってみて考える。7時間半ちゃんと寝ても、起きられない。怠い。何故だろう。昨日食べ過ぎたせいか?じゃあ食事量を減らしてみようか。それで良くなる時もあれば、今みたく二連休を殆ど横になって過ごす時もある。対症療法的な様々を行ってみて、最も効果があると感じているのは日記をつけることだ。おれは冷血人間だから、手書きなどと血のかよった方法は取りたくない。だから、メモ帳に日記をつける。思ったことを書くだけだ。それが自分には結構面白く、今現在も気力の高まりを感じている。ほかの効能としては、自分の思っていることを可視化できる。病的な状態に陥ると症状とその対処に追われることになり、自分の気持ちなど横に置いておいてしまう。しかし、うつは心の何かがうまく機能していないから発生するわけで、ならばその心に目を向けてみようという発想が日記である。セルフカウンセリングのようなものだ。利点は、リスクとコストがゼロだということである。

  では日記を毎日付ければいいのではないか。そうなのだ。だが見てほしい。150日で4記事しか書いていないこのブログを。メモ帳にはもう少しだけ書いている程度。これが無気力の強さである。無気力が常習的に発生すると、まず継続して何かを行うことが不可能になり、社会的地位の確立はほぼ不可能になる。これがうつ=人生終了説である。けして我々は早まっているのではなく、じっさいに早いのである。あまりにも残酷に予見できるその未来を日々の無気力の継続が担保する。

  しかしおれは諦めない。アスリートは、肉体の働きを最大限に引き出すため日々に気を払っている。同じように、おれは、精神の働きを最大限に引き出すため日々に気を払っている。おれの主症状は、頭の働きが鈍くなってしまっていることだ。記憶力も、思考の奥深みもなく、常に霧がかった感覚にある。まだ若く、野心も旺盛なおれが部屋の中に篭りっきりなんてあんまりだ。ただ、現実は人生の終了に向かってゆっくりと進んでいるのかもしれない。ただそれをいうのなら、死も同列である。死に比すればなんてこともないという意見もあるが、それは運よく生きてこられただけの話だ。死より辛いことはたくさんある。それは自ら死んでゆく人びとが教えてくれる通りである。話が逸れたが、死も同列で、大したことがないときている。おれは自分を奮い立たせるためにこの文章を書いているというのに、どうも寿命を縮めてしまいがちな現実と共存せねばならないらしい。

  おれのいいところは、切り替えが結構早いところだ。上に書いたことも一理ある。それはそれでいいのだ。だがおれはそれ以上にもっともっと進歩的でありたいし、まだ見ぬものを見てみたいし、まだ出会っていないものに出会ってみたい。好奇心が旺盛なのだ。それを阻害する要因としての無気力を今度こそ前向きに考察したい。

  無気力は、誰にでも起こりうるものだ。様々な心の揺れ動き、時間によるなんとなく、これ以上ない満足と失望、理由は様々。ゆえ、対策も様々である。だから、各々が各々のやり方で戦うしかないのだが、病的状態の人間の無気力は、健常者のそれと比して、一段高いフィールドでの勝負になってくることを前もっておきたい。これは単純な話で、我々にとってのそれは強く長引きやすく、場合によっては死に至るのだ。だから、アスリートとわざわざ並べて書く必要すら出てくる。

  高いフィールドでの勝負は、皆が見たくなるものだ。だから、一定の需要があると考えここに自分なりの対策を記していきたい。まず、好きなことをやる。うつになると、まず好きという概念が崩壊した。そこまで強い気持ちが起きない。なので、正確にいうとやりたいことをやる。食べたいものを食べ、行為したいときにし、寝たいときに寝る。これは基本的欲求であるから、皆がやってみたいことではないかと思う(もしそうでないのなら、是非お会いしたい)。ここでマズローなどを引用するのは野暮である。死に向かう自己実現だってある。ただこれではいささか正確さに欠けているので、、、と延々と脇道に逸れること間違いない。それに、おれの専門外だから自分の経験から来る言葉で話す。

   基本的欲求が満たされると、次に娯楽を求めはじめる。楽しいことは皆好きなのだ。おれも例外でなく、動けるようになったら勉強なんてせずゲームをしたりアニメを見たり、女の子と遊んだりする。元々休まねばならない身なのだから、一切罪悪感は感じない。ただ、正直にいうと楽しいわけではない。楽なだけだ。何かすることのある自分を感じられるそのちょっとした充実感、あるいは気を紛らわすことのできる時間に何とか絞り出したエネルギーを投下しているだけだ。エネルギーが暇という毒物に変化しないように昇華してやるだけのことなのだ。

  娯楽によって暇が潰されてきたころ、ようやく将来に向けた継続的な目標について考えだす。考えるだけだ。行動しない。何故なら無気力が常習的になっているからだ。特に、集中して物事に取り組むといったことが困難である。とにかく、楽をできるまでのステップが大事である。

  ここに至るまでに、嫉妬や怒り、悲しみなど人と比べたり自分の境遇を噛みしめることでたくさんの辛い思いをしてきた。しかし、今ではわかる。それらは無駄ではなかった。ただ、やはり感性は落ちており、必ずしもハッピーになっているわけではない。それについてはこれから述べる。

  上に書いたが、逆に未来が予見できれば継続は担保できる。9割の人間は、三日坊主という言葉に合点が行くだろうが、実は人間、そうそう飽きっぽいということはない。給料がひと月先に入って来るから、31日間も継続して努力できているではないか。給料が理由でないのなら、高尚でなお良い。

  このように、利益が得られると分かっていることに関しては努力できるのが人間である。ただ、感性が落ちていると、経験上分かっている事柄に関しても未来を予測し感じ取ることが困難になる。よって達成することもまた困難になる。これは目標が長期に渡れば渡るほど顕著に現れる。つまり、おれの場合、短期で終了する物事を連続して継続することが最も具合が良いということになる。

  長期に渡る目標も、納得行くまで分割すればいいという考えもある。しかし、結局遠大な目標を目指すという視点を持ってしまう。意識せざるを得ない。この時点で敗北が濃厚なのである。ゆえに、基本的に目標は持たないのが正解になる。持っても短期的に終了するもの。

  とにかく、何かを達成するにはそれを馬鹿みたいに予見できることが大事である。例えば、一冊の古典を読み終えたい。それを読了できる知性を所持していると仮定して、概ね1週間はかかると予見する。更に、無気力状態を想定しよう。さあいつになるだろうか。もう曖昧になってくる。こうして、これは遠大な目標だったとわかるわけだ。一方、横になりたいという目標があるとする。おれの部屋は、今日たまたま万年床状態なので、身体を右斜め後ろにひねり、一度右手を床につけてから下半身を移動させ、それから腰を仰向けにし最後に上半身も同じようにして天を向き身体を地と一体とすることで横になるというわけだ。これは、横になりたいという目標を達成するためのステップなのだが、実に馬鹿みたいによく分かっていることが伝わってくることと思う。これを応用する。

  このように、大事なことが何なのか分かっていても、つまらない段階からすでにうまくいかないことはよくある事なのだ。だから、それを想定して、あるいは経験からできる限り失敗を避ける。そして、馬鹿みたいに物事を考え分解し理解していく。そうすると、徐々にだが、うまくいくようになってくる。例えば今で言えば、無気力の話がまるきし出なくなった。これが今回の一つの成果である。

  今回は全体的に不足の感もあるが、姿勢の話として、ここで筆を置きたい。

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