休学生の一日 [day255]

おれは今年度の院試を諦めた。

大学に復帰することすらままならない。とてもじゃないが、半期で40単位取得するのはこの体調では無理だ。復帰できなければ、院試を受ける意味もない。受かっても付いていけない。吐き気、悪寒、倦怠感、無気力、疲労感。呼吸をするたびに吐き気を感じながらこの文章を書いている。できる限り排除につとめてはいる。が、止められない。何をしたらいいのかぼやけてしまう。絶望を感じる。

しかし、おれはおれの人生を諦めたくない。今出来ることをやり(あるいはやめ)、回復に向けて可能な限りの策を考え実行する。時間がかかることを受け入れなくてはならない。多くの犠牲も伴うだろう。既にたくさんのことを諦めてきた。いつものことだ。

 

おれは運が悪かった。だがこれからも手は打ち続ける。

 

時は金以上の価値がある。人はいつか死ぬ。刹那的な物質主義に囚われるのはやめた。そんなのは生きるエネルギーを持て余している人がやればいい。おれには精神生活を遂行する余裕しかない。

だから、まず時間の使い方を改めることにした。ただでさえ動けない時間が多いというのに、その限られた時間で何をするかは決まっている。金を稼ぐこと(回復に向けた試行による借金の返済)、本を読むこと。まず、この2点ははずせない。

次に、自分のやりたいと思われる(残念ながら、自分でそこまで強く感じることができないが、相対的にはマシな)ことを捻り出した余暇でやる。身体を鍛えたり文章を書く。他にも趣味らしきものはあった気がするが、忘れた。余暇が必要な理由は、人間らしさを求めることにある。感情的になり、人間的でいられる。それは今のおれには足りないものであり、回復に必要な条件の一つである。

 

あとはそれを一日の中でどのような配分で行うかだ。

おれは長い間、朝は集中できるという論に懐疑的であった。低血圧だからだ。

だが、よくよく考えてみると確かに朝の仕事中など、相対的に見れば集中力が高いことに気がついた。

なので、この時間帯で書物を読む。昼間は仕事か休む。夜はなるべく人間らしく生きることに努める。

まあ、今までやってきたこととそう変わりはない。今のおれに大事なのは、安定感である。安定感があれば、変化を加える余裕が出る。変化があれば、それは安定に繋がる。もちろん逆も然りだが、それはこれから避ければいいだけの話なのだ。

その安定感の積み重ねが日々を担保する。おれにとって日々が確実なことは欠かせない。

死にたい気持ちに胸をいっぱいにしながら、布団から一日出られないことも多い。でもそれは必要なことなのだ。日々の疲労を身体が取り返そうとしてくれている。そう考えられれば、無駄な日ではなかったと思える。何日も寝たきりだとしても。そこから得られるものはある。どれだけの動きに対し、どれだけの休みが必要だったのか分かる。

 

この安定感を求める日々の繰り返しの先に、周囲と自分を比較しないことを身につけた。

皆が皆自分の持てるエネルギーを80~100%発揮して生きている。中には運良くそれ以上の人もいる。

その中でおれは40~60%の日々を繰り返す。先天的な能力に頼み、何とか平均以上の成果は上げてきたが、とてもじゃないが本領発揮とはいかない10年間。

何故おれが。そう自問して悩む日々も続いた。

だが、現代のエネルギー生産量による実質的階級社会で、人はその人らしい環境に落ち着くとおれは思う。おれは大学生活を真性のぼっちで過ごし、休みの日は部屋にこもることにも慣れ、孤独を手に入れた。孤独であることにも悩んだ時期があった。だが、それは慣れることができる。何故なら、自分らしいことだからだ。

自分らしさを手に入れ、おれにはおれの揺るぎない価値があると確信した。その時、比較することにはあまり意味がないと感じるようになった。皆、比べるには余りにも違いすぎる。

そういうわけで、おれは今、安定感を持って生活できているといえる。

 

うつの回復には平均4~5年かかるというデータを見つけた。おれはキャリアが10年あるから、30代にまで差し掛かることは覚悟している。

ただ、もっと早くことは済むのかもしれない。

それは誰にもわからないことなのだ。ただ、打てる手を機関銃のように打ち込んで行くしかないのだ。

 

新たに、カウンセリングと均整院を予約した。

カウンセリングが心にフォーカスしたものであるなら、均整院は身体の働きにフォーカスしている。おれの通っている精神科はその折衷といったところか。

 

何故だか分からないが、これ以上手が打てないという状況は存在しないと感じている。

それがおれのただ一つの希望である。